ナショナルアンセム 0008 【感染】
僕は今日、大阪の職場で終電近くまで働いておりましたが、
「今頃どんな反応が起こってるのかなぁ」と気が気じゃなかったです。
というか、昨夜は眠れませんでした…。
しかし、観に来てくれた知人から
「劇場を出たら渋谷の街で喧嘩が起っていて、ナショナルアンセム状態だった」と報告があり、
「やった!スクリーンから感染したんだ!」と帰宅の電車の中、携帯を握りしめました。
誰にも知られず密かに作り続けた【自主映画】の『ナショナルアンセム』が、
東京の街に感染して行く様を思い浮かべると、
それは僕の映画の一つの理想的な物語であり、
この映画らしいエピローグだと思いました。
この場を借りて、大阪という遠方に住む僕にまでお声を掛けて下さった高橋洋さん、しまだゆきやすさん、ユーロスペースの皆さん、応援して下さった井川耕一郎さん、大工原正樹さん、その他、沢山の関係者の皆さん、
本当にありがとうございました!!
まだまだ上映は金曜まで続きます。
明日の『ちえみちゃんとこっくんぱっちょ』は傑作ですので是非!
(西尾孔志)
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ここまでのおはなし
0001【はじまり】
0002【ミュージカル】
0003【暴動】
0004【卒業】
0005【カリスマ=T橋とK沢】
0006【最後の上映】
0007【頂いたコメント】
高橋洋監督の感想
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コメント (5)
井川様
ここまで深く語って頂いてありがとうございます!
>この世界の中に居場所が見つけられない少女と少年が出会ってしまう物語。
>この世界の終わりと、新たな世界の始まりを夢見る少女と少年の物語。
いや、まさに、これです!(笑)
僕はずっとこれしか撮ってないです。
恥ずかしい告白をすると、
僕は30超えても、いまだにこの気持ちが抜けません。
居場所がみつからない子供。
例えば「会社」と呼ばれる場所で自分が普通に大人として扱ってもらう事に対し、何だか恐れ多い気分になってしまいます。「僕なんて」という気分が抜けないんです。
おいおい、こんだけ日記やら宣伝やらで自己アピールしておいて…と思われるかも知れませんが(笑)、
本心は「僕なんて」です。
それと看護婦の歌について。
彼女は劇中、一言も話さず、歌しか歌いません。
それは最後に偽物(カセットテープ)だと分かるのですが、
これは「偽物でも人は救われる」という僕の考えです。
そしてそれは「高橋洋、黒沢清、の偽物」である『ナショナルアンセム』と相似であります。
自主映画は、自分にとって切実であれば、偽物で良いのだ、
と考えてました。
井川さんのにコメントを拝読して、
そんな事も思い出しました。
ありがとうございます!
投稿者: 西尾 | 2008年07月13日 08:47
日時: 2008年07月13日
浅野様
コメントありがとうございます。
僕も浅野監督の作品をにやにやしながら拝見しました(笑)
黙々と更新する日記に、皆さん呆れてるんじゃないかと思ってましたが、
浅野監督の「欲が出てきました」の一言に救われました。
「欲望」。
僕は33歳ですが、僕ら世代とその下の世代は欲望を自制しがちですよね。
だから僕は、この映画を作る当時、
「長い、退屈だ、下手だ、チープだ」と思われる事よりも、
今はまだ欲望のままにどんどんやるべきだと、
映画を拡散させてしまいました。
そこは多くの方が指摘する通り、弱点だと思います。
でも、思ったんです。
映画に自分を合わせるのは、もうちょっと年齢がいってからでいいや、と(笑)
是非いつか、東京で飲みましょう!
ありがとうございました!
投稿者: 西尾 | 2008年07月13日 08:25
日時: 2008年07月13日
吉田良子さんからメッセージ頂きました
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良い映画体験をさせていただきました!
時間が進むにつれてドキドキと胸が高鳴りましたです。
あのお風呂場のねえちゃんがもう夢に出てきそう。
強烈。強烈の連続。
それってすごいことですよねー。。
終わったかとおもいきやまた始まって、次の場所へと駆け抜けてゆく女子に壮快な気分になり劇場を後にしました。
東京で上映され、拝見することが出来とてもよかったです。
ありがとうございました。
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ありがとうございます!
投稿者: 西尾 | 2008年07月13日 07:43
日時: 2008年07月13日
前に書いた感想だと、
『ナショナルアンセム』の見どころはまち子だけみたいに見えてしまうけれど、
そんなことはない。
たとえば、まち子が風呂に入っている場面。
この場面には、まち子の姉の幻が出てくるのだけれど、
その幻は浴槽の縁に立っていて、
ゆっくりおじぎするようにまち子に迫ってくる。
このとき、まち子を間近からじっと見つめる幻の姉の顔は、かなり恐い。
それから、まち子が病院でカウンセリングを受けたあとの場面。
とおりゃんせ……とおりゃんせ……と、
恐いくらい透きとおった歌声が聞こえてきて、
まち子は病院のテラスに出る。
すると、画面に映るのは一人の看護師の後ろ姿で、
まち子は彼女の隣に立ち、歌声がとぎれたところで話しかける。
伝染病なんです……、と。
まち子はなぜ自分にとり憑いた妄想を告白する気になったのか。
その理由は、看護師の顔を正面から撮ったカットを見たとたん、すぐに分かる。
隣にいるまち子を見ているはずなのに、もっと遠くを見ているような目。
頭蓋骨の形が透けて見えてきそうな顔つき。
とおりゃんせ……と歌っていた看護師には、
この世のものではない妖しげな存在感がある。
ここまで書いてきて、ふと思ったのだけれども、
姉や看護師が不気味な存在感を示すようになったのは、
まち子に接触したからではないか。
『ナショナルアンセム』のあらすじは、
口笛を介して何かが人々に感染し、殺人が起きるというものだったが、
まち子の顔も口笛と同じくらい、感染力の強い何かを放っているような気がする。
いや、ひょっとしたら、
この思いつきはもうちょっと真面目に考えてみてもいいのかもしれない……。
工事現場から不発弾が発見されたこと。
かつて町にあった軍の施設で催眠術の研究が行われていたこと。
『ナショナルアンセム』の中で次々と起きる殺人は、
地中に眠っていた過去の呪いが解き放たれた結果のように見える。
けれども、本当にそうなのだろうか?
映画の後半で、団地の管理人の息子は刑事に射殺されてしまうが、
そのとき、彼はまち子に向かって「さよなら、お母さん……」とつぶやいてしまう。
彼は本当のことに気づいてしまって、
この世界の仕組みを告げようとしていたのではないか。
世界に混乱をもたらしているのは、過去の呪いだけではない。
まち子の狂気も原因の一つではないだろうか。
いや、もうちょっと正確に言うなら、
映画の後半、白昼堂々と殺し合いが行われるようになってからの世界を支えているのは、
まち子の狂気だけのような気がする。
姉が首を吊って死ぬ幻覚を見た直後に、まち子は診察室で意識を失うけれども、
その後、彼女が目を覚ました世界は、それまで生きていた世界とは同じではないだろう。
そうではなくて、彼女は自分の妄想の中で目を覚ましたのではないか。
面白いと思ったのは、廃工場でまち子が目を覚ましてからの場面だ。
まち子は自分の分身を目撃し、あとを追いかけるようにして建物の二階に上がる。
すると、そこには団地の管理人の息子がいるのだが、
部屋の隅にうずくまっている、ちょっと頭の弱いその息子の姿は、
『ナショナルアンセム』の後、西尾孔志が撮ることになる『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』に出てくる、
自分を宇宙人だと思いこんでいる少年・タケオによく似ているのだ。
似ているのは、団地の管理人の息子だけではない。
分身を見てしまうという点で、まち子も『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』のヒロイン・華に似ていると言える。
『ナショナルアンセム』の製作は、黒沢清や高橋洋をまねてみようという発想から始まったのかもしれないが、
廃工場でまち子と団地の管理人の息子が出会うシーンを撮ったときに、
西尾孔志は、これから自分が語るべき物語が何なのかをうっすら予感したのではないだろうか。
この世界の中に居場所が見つけられない少女と少年が出会ってしまう物語。
この世界の終わりと、新たな世界の始まりを夢見る少女と少年の物語。
ひょっとしたら、西尾孔志は青春映画に資質的に向いているのかもしれない。
ところで、精神を病んでいるまち子は、一体、何を望んでいるのだろうか。
まち子は、伝染病が広まって、みんな死んでしまう、と言っていた。
ということは、自分自身も伝染病で死ぬことを望んでいたのだろうか。
けれども、まち子は口笛を聞くことがない。
だから、殺し合いに加わることもできない。
映画の後半、白昼堂々と殺し合いが行われる世界で、
まち子が武器を持たないのは、誰かに殺されるときを待っているからなのか。
いや、まち子が武器を持たないことについては、別の解釈も成り立つような気がする。
伝染病で、みんな死ぬ、という予言めいた言葉を口にしたとき、
まち子は、世界が破滅するさまを見届けたい、とひそかに願っていたのではないか。
彼女の無意識は、
世界の破滅を見届ける運命にある自分が、そう簡単に死ぬはずがない、
と思っているのかもしれない。
それだから、まち子は武器を持とうとしないのではないだろうか。
さっさと死んでしまいたいと願う一方で、まだ死なないだろうと思ってしまう矛盾。
まち子が武器を持たないことの中には、そうした気持ちの揺れ動きというか、迷いが読み取れそうだ。
けれども、そんなまち子の前に、我が身を守るために武装することを選んだ女たちが現れる。
(この武装集団の中に、恐いくらい透きとおった歌声のあの看護師がいるのを見て、
私はうれしくなった。
彼女の出番が一シーンだけで終わっていいはずがないのだ)
集団の実質的なリーダーらしい女子高生(ライフルを手にして立つ彼女の姿は、様になっていて美しい)は、まち子に語る。
「(世界は)狂ってる方がいい。
おれは前の世界が嫌いだった。
今の方が充実している」
このとき、女子高生はまち子に、世界の破滅を見届けよ、と迫っているように見える。
それにしても、
世界の破滅を見届けることは、
後から来る何者かにそのすべてを物語れ、ということではないか。
言い替えれば、
世界の破滅を見届けることは、
表現への欲望を産みだす、ということではないだろうか。
映画のラストで、
まち子は女子高生、看護師とともに、銃声がひっきりなしに聞こえる中を駆け抜ける。
その走る三人の姿は、常本琢招が学生時代に撮った自主映画『にっぽにーず・がーる』(7月17日(木)14時からフィルムセンターで上映されるとのこと)をふと思い出させる。
たぶん、西尾孔志は『にっぽにーず・がーる』を見ていないだろう。
それでも、二本の映画が似てくるのは、
西尾も、常本も、今ここで何かを表現したいという欲望に衝き動かされるようにして、映画を撮っているからだ。
どこからか飛んできた銃弾によって、倒れてしまう看護師。
それを見て、まち子の足は止まってしまう。
すると、女子高生は「走れ!」と叫ぶ。
その呼びかけは、まち子に対するものであると同時に、
西尾孔志が自分自身に向かって放った言葉でもあるだろう。
表現への欲望を肯定し、作品を作り続けること。
『ナショナルアンセム』は、一人の映画作家の誕生を告げる重要な作品だと思う。
投稿者: ikw | 2008年07月12日 07:31
日時: 2008年07月12日
『空の飴色』の浅野です。
コメントが遅くなってしまい申し訳ありません。
「伝染病」に罹ったのではないはずですが、『ナショナルアンセム』を観た翌日から、少し体調を崩してしまいました…。
さて、作品について触れたいと思います。
100分間の活劇、楽しませていただきました。
「何かに似ている」というのは、そのとおりかもしれませんが、真似をしたからではなく、監督が撮りたいものを撮り切った結果なのだ、と思います。
カットの端々に、西尾さんの欲望が垣間見られ、作品を観ながらにやけてしまいました。
私などがいうのもなんですが、私と共通する嗜好性を感じたことは事実です。
ただし、自分ならば、この100分の物語をもっと凝縮させたいと思います。
尺の問題というより、物語の中身について、ですけれど。
50人もの登場人物がいるためか、話が拡散した感じは否めません。
もっと一人(もしくは二人)の登場人物に寄り添った演出を見てみたいと思いました。
(その点で、未見の『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』には大きな期待してしまいます。再度、東京で上映する機会はないものでしょうか。)
それから、登場人物は誰も関西弁を話していなかったように思うのですが、記憶違いでしょうか? この映画には方言が似合うと思います。
最後にもう一言。
高橋セレクションも最終日を迎えました。
この公式HPでは、他のセレクション監督の誰よりも、西尾さんの書き込みにいちばん刺激的を受けたと思います。
「監督が作品に責任を持つ」という言葉は、制作後の上映フォローまで含んでいるということを、あらためて認識させられた次第です。
拙作『空の飴色』は、とある権利問題(わかりますよね?)を残していたため、本来は公の場で上映できる代物ではありませんでした。その点で、売り込みにやや消極的になった感はあります。
今回、そのような私の作品がユーロスペースの大画面で上映されたこと、そして同じ場で上映された西尾さんは(普通のこととして)堂々と宣伝活動を行ったという事実。
なんということでしょう。しばらくおとなしくしようと思っていたのに、欲が出てきました。
とはいえ、私が映画の現場に復帰するのは、やはりまだ先のことです。
復帰した際は、おおっぴらに上映できる作品をつくって、「これでもか」というくらいに売り込み活動をしてみたいですね。
そのときはよろしくお願いいたします。
投稿者: 浅野学志 | 2008年07月12日 00:16
日時: 2008年07月12日