『アカイヒト』を語る3(遠山智子)
井川さんから質問をいただきました。『亀の歯』『巣』『アカイヒト』の三作品には、どれも兄と妹が登場し、さらに妹は死んでしまうか、死病にとり憑かれている、という共通する設定がある。なぜその設定を繰り返すのか、そのこだわりは何なのか、宮沢賢治の『永訣の朝』なども関連しているのか。といった質問でした。
この兄と妹の設定の繰り返しは、私自身も、作るうちに気付いてきたことです。この三作品の他にも、『あいな』(“兄”の意 )や、いま制作過程にある自主映画にも、相も変わらず兄と妹が登場します。これらは全て、私の兄、私の母と伯父の存在、そして兄と妹という関係性への個人的な興味に因ることと思っています。
私には兄が一人おり、どちらかというと少し執着しています。兄と妹とは、一つの身体がバラバラに離れているだけであって、実は両性具有の一つの生き物だと妄想することもあります。例えば起きがけに、さっきまでみていた夢の最後を必死で反芻するように、根拠もないところで信じきっているような感覚です。そもそもは、兄と私の顔が似ている、ということが発端だと思われます。また、幼い頃、姉よりも歳の近い兄について遊んでいたことも原因の一つです。兄は自分にとって、先導者であり、庇護者であり、同じ経験をした幼なじみであり、見捨てるように先に社会に出てしまった手の届かない人であり、憧れであるということです。そしていつまでも私は妹でありたいと願っているのです。
また、私の母が伯父と二人兄妹であること、子供の頃二人で親戚の家に預けられた時期があること、母が病弱であったこと、伯父が亡くなったこと、それらが、私に、兄という存在への妹の特殊な愛情や、兄の、妹や妹を取り囲む世界に対する愛というものを感じさせました。
こういった個人的な環境がやはり一番反映されているのだと、いまはそう思っています。
宮沢賢治の『永訣の朝』『雪渡り』『ひかりの素足』。その他、兄妹・兄弟がでてくる作品は、二人が、何か一つの経験や秘密を共有し、それがどちらかの死に関することであったりすることが、まるで一人の人間がそれを通過したように感じられ、兄妹・兄弟の愛の一つの形として私の中に積み重ねられています。
死に出会ったとき、兄は妹に何をするか。妹は兄に何をするか。死に出会ったとき、お互いの存在は影のように自らの中に染み付き、二人は決定的に別々の人間になっていくのではないか。私なりの、自立についての観念だと思っています。



コメント (1)
『アカイヒト』は、遠い昔、アジアのどこかの小国で、伝説を題材にして作られた映画みたいですね。
日本語字幕のついたフィルム断片が、最近、田舎の土蔵の中から発見され、
フィルムセンターが復元しました、
と言ってもおかしくないような感じです。
ところで、『アカイヒト』のあらすじは、
「昏睡の続く妹、園(ソノ)を捨てるために、“世界”へやって来た兄、九地(クチ)。
とある宿で、二人は束の間、最後の日々を過ごすはずであった。
しかし、宿の使用人、御項(ゴウナ)が園を見初め、
森に住む女が九地を見初め、
園が“世界”を追放されつつある青年を見初めたことから、
“世界”の秩序は少しずつ崩れ始めていく。」
となっていますが、
もうちょっとくわしいあらすじはないのでしょうか。
『アカイヒト』を見た記憶に頼ってあらすじを書いてみると、
大体、こんなふうになるのですが……。
兄の九地は病気の妹・園を抱いて旅に出た。
洞窟だか宿屋だか分からないところに泊まる二人。
食事をすませたあと、妹はお椀を返しにいくふりをして外に出る。
どうせ捨てられる身なら、
自分から姿を消そうということなのかどうか分からないけれど、
妹は森の中に入っていく。
翌日、兄は妹を探しにいくが、疲れて砂浜で眠ってしまう。
すると、兄を後ろから抱きしめる女が。
女は兄に、わたしのお婿さん、と呼びかける。
一方、妹の園は森の中でひくひくと脈打つ樹と出会う。
樹は園に語りかける。ここにいてはいけない、と。
園は宿屋に戻るけれど、
そこには兄はいなくて、黒マントの少年がいた。
少年のうなじには罪人の徴みたいなものがついているが、
園は少年と一夜をともにする。
翌日、黒マントの少年は園を残して、ひとりで旅に出る。
だが、荒野を行く少年は、三人の男たちによって埋葬されてしまう。
それからどれくらい時間がたったか分からないけれど、
黒マントの少年が埋葬されたあたりを、白い服を着た少年が通りかかる。
白い服の少年は地面からいきなり生えている奇妙な花をつむと、
その花の声を聞こうとして耳の近くまで持っていく。
すると、白い服の少年は、ぼんやりとではあるけれど、園の顔を幻視してしまう。
ところで、園はというと、森の中をさまよっているところだった。
彼女は森の中で女に養われている兄の姿を見てしまう。
「ありがとう。さようなら」と遠くから兄に向かって呼びかける園。
園は脈打つ樹があるところまで行くと、そこに横たわる。
すると、いろんな色のついた雪がゆっくりと降ってきて、園を埋めてしまう。
翌朝、目覚めると、園は草原の中にいる。
園は立ち上がると、草原の向こうへと歩きだしていく……。
こうやって『アカイヒト』のあらすじをまとめてみると、
妹・園が兄・九地への愛をあきらめるために、
兄のかわりとなる恋人を求める話、というふうに見えてきます。
結局、黒マントの少年は園の恋人になることはできなかった、ということでしょうか。
そうなると、白い服の少年は何だったのだろう?
白い服の少年は奇妙な花をつんで、それを耳のそばまで持っていく。
たぶん、花は黒マントの少年の遺体から残留思念を吸い取っていて、
園のことを白い服の少年に語りかけたのでしょう。
けれども、気になってしまうのは、
その後の、白い服の少年が幻視してしまう園の顔です。
あのピンボケの園の顔のアップはすごい。
間近からふいに見つめられてしまったような驚きを感じてしまう。
ひょっとしたら、幻視したのは、白い服の少年だけではないのかもしれません。
園もまた、あの瞬間、白い服の少年を幻視してしまったんじゃないか……。
そう考えると、
『アカイヒト』のラストは、園が一瞬だけ見えた未知の恋人を探しに旅立った、
ということになるのでしょうか。
『アカイヒト』には、よく分からないけれど、何だか気になってしまうところが多いですね。
カタツムリが何度も出てきて、それがだんだんとエロチックに見えてくるのだけれど、
一体、カタツムリは何だったのだろう?
それから、荒野を行く黒マントの少年がお椀の中をのぞきこむと、
足のはえた唐傘が三つ、くるくる回っている……。
これも気になりますね。
笑ってすますことができない、ぞっとするところがあって。
くるくる回るといえば、
黒マントの少年がひとりで荒野へ旅立ったあとだったか、
園が小さな男の子に添い寝している姿をカメラが回転しながら撮っているところがあったけれど、
あれも何だったのだろう?
黒マントの少年とか、白い服の少年とか、
ついつい「少年」と書いてしまいましたが、これも気になりますね。
というのも、兄の九地は鋭い目つきの「青年」という感じのひとだったから。
九地に比べると、
黒マントの少年も、白い服の少年も、顔つきが若いというか、あどけない。
園は少年だった頃の兄に似たひとを探し求めようとしているのでしょうか。
カタツムリをとらえたカットを見ていると、そこに二つの運動を感じてしまいます。
まっすぐに進もうとする動きと、ぐるぐるとうずまく動き。
園は兄への愛をあきらめて先に進まなければいけないのだけれど、
どうしても少年時代の兄のことを思い出してしまう。
そういう園のあり方がカタツムリに反映しているように見えないこともない。
でも、やっぱり、これは単なるこじつけでしかならないでしょう。
『アカイヒト』は、見る人をとりとめない解釈の迷路へと誘う謎めいた映画です。
そういえば、タイトルが『アカイヒト』となっているけれど、
誰がアカイヒトだったんでしょう?
投稿者: ikw | 2008年07月07日 10:04
日時: 2008年07月07日