■ 沖島勲 X 高橋洋 対談 (2)

kyouki08.jpg沖島:Vシネマって言うけど、高橋さんはどういうのやっていたの?

高橋:僕がやっていたのは最初は東映ビデオでダブルエックス(XX)シリーズっていう女の殺し屋もので、エロティックとアクションが組合わさったものでした。あの頃は僕の仲間たちがいわゆるエッチVシネと言われるものをやっていて、ギリギリまだジャンル映画として機能していたんですね。今でもなくなった訳ではないけど、僕らのやっていた頃の月に何十タイトルと量産されていたVシネという形とは違ってきていますね。
進行:どういうところがやりやすかったのですか?

高橋:それこそ沖島さんが東映でうんざりしていたであろうプログラム・ピクチャーに似た働きを当時のVシネマがしていた訳です。例えば、哀川翔さんが出演すると何千本は売れると必ず計算できる訳でしょ。そうすると哀川翔さん主演で何かとにかく一本考えてくれって言うようなオーダーが来るし、非常にやりやすい(笑)。そういう時ってずっと使われ続けてきたヤクザVシネの形式を疑いながら作るっていう余裕もあるんですよ。ヤクザVシネにも勿論こうしなければならないっていう定式はあるんだけれども、それが何か表現を規制しないというか、その間をかいくぐって色んなことができちゃう面白さがあったんです。そういう枠があるから、こっちもそこに集中しやすかったんですよね。

沖島:若い時代にそういう修業時代の機会があるかどうかっていうのは随分大きいよね。ロマンポルノの連中だって、そこからライターや監督がでてきた訳で。今は本当にそういう機会がないんじゃないの。そうするとどこでそういう修行期間を送ればいいのかって難しいよね。

高橋:今の若い監督だと、デビューからいきなり"作家"として勝負しなければいけない。そこで物を作っていかないといけない状況は本人にとってもキツいだろうな、と思いますね。

進行:『一万年、後....。』も海外に紹介していただけるということで、カタログ作りのためにいろいろと作業をしていたのですが、紹介のために必ずジャンルを規定しなければいけなかったんです。そこには「SF」、「ホラー」、「ファミリー」、「コメディ」、「恋愛」等のジャンルがあったのですが、どうにも困る訳です。通常は「SF」とすれば通りが良いんでしょうが...悩んだ末、「恋愛」以外の全部のジャンルを選択しました。

高橋:ホラー映画は未だ機能している数少ないジャンルですが、中にいる自分の感覚としては、先ほど言ったように、ここでお客さんが幽霊を観たがっているから「はい、出します」というのは、もうしらけてしまう。そのことを生々しく自分の手触りで感じてしまうから、少なくともホラーと言われているジャンルは変質していかざるをえない、と思うんですよ。  僕は『一万年、後....。』はゴースト・ストーリーだと思うんです。ジャンルというのは作る側が映画を商品として機能させる術でもあるんだけど、一方で物を認識するときの見方でもあるんですね。例えば、『一万年、後....。』がSFだ、というのは分類にすぎない。ただし、ゴースト・ストーリーだというのは批評なんです。それはこの作品が孕んでいる認識を何か言い当てようとしている言葉である、と。一万年後の未来を描いているからSFだっていうのは、すごくいい加減なことなんですよね(笑)。  それでもSFだってジャンルとして本当に機能しているときは、そうではなかったはずです。例えば、一般的にホラー映画と分類される黒沢清さんの『回路』(00年)なんていうのは、あれは実に正しいSFですよ。SFがゆえに怖くはないってとこが不満ではあるんだけど(笑)。逆に『一万年、後....。』はゴースト・ストーリーだから怖いんです。『回路』で示されている認識っていうのは、黒沢さんがインタビューで答えている「幽霊=人間」でしょうね。無限の時間軸の上に人間と人間を出自とする幽霊を置いてみて、そこから幽霊を、人間とは位相の違う、一種、知的生命体のようなもとして捉えていく。これは宇宙人やゾンビに近い、SF的なものの捉え方です。一方でゴースト・ストーリーの目指しているものって、人間が認識しえない何かにちょっと触れてしまった、という体験をさせることなんですね。その意味で『一万年、後....。』には幽霊が出てきた感じがすごくあるんですよ。  『一万年、後....。』を観たときにあの世とこの世のことを考えていたんです。チラシコメントにも書いたんだけど、あの世は人間が思考しえない領域で考えることが不可能だけれども、一万年後というこの世の世界であればかろうじて人間は思考することができる。ただ、その後、二回目に映画を観て気づかされたのは、一万年後の世界に住む人間たちがあの世の比喩のように存在している訳ではない、ということを僕はコメントで言いたかったのだ、と。つまり、幽霊なのは阿藤快さんなんだよね。映画の中で、阿藤さんは現代人として忽然と一万年後の世界に現れちゃったんだけど、あそこにたまたま現れた現代人こそが実は幽霊だ、と。そうすると映画を観ている僕たち全員が阿藤さん=幽霊の立場にいるっていうことなんです。あそこでは日本語もなくなっていて、一万年後の少年たちが話している言葉は全く訳がわからない言葉なんだけれども、阿藤さんには日本語として聞こえているし、舞台になっている昭和っぽい室内なんかも、実は阿藤さんの目にそう見えているだけってことなんだよね、きっと。これは幽霊が一万年後の世界にさまよいでてきちゃって、目の前にあるものを認識しようとしたら、自分がもっている物差しで見るしかないから、こう映っているんだっていう物凄く恐ろしい断絶を描いているように見えてきたんです。結局、阿藤さんが一万年後の世界に現れる前に見てきたという電波の海のような訳の分からない世界が何なのか。これは、絶対人間には知り得ないものであって、そういったところがゴースト・ストーリーの領域なんだろうな、と。 もちろん、お客さんの多くが『一万年、後....。』をゴースト・ストーリーとして了解するかどうかは分からない。さきほど話にあがったお客さんの望むものにだけ合わせて共感を呼ぶだけの物を作るとなると、作品が畏怖すべきものにはなりえないけど、お客さんにとって不親切なものを作ってしまうと確かに興行的には厳しい数字が出る。プロデューサーは責任上、言わざるをえない、そういう状況ですよね、今は。

進行:『一万年、後....。』と『狂気の海』には隠れた共通点があります。『狂気の海』は映画美学校のカリキュラムの一環として学生と製作された短編映画ですが、『一万年、後....。』も当初はプロのスタッフとではなく沖島さんの教え子である熊本の学生さん達と短編で作ろうとしたと聞いています。 今の学生さんの年代は沖島さんや高橋さんとは全く別の映画体験をしてきただろうし、もしかしたらかつてオーラのあった映画というものを全く知らないこともありえると思いますが、そういったジャンル映画やプログラム・ピクチャーの衰退の後で育ってきた人達についてはどうお考えですか?

高橋:僕らも高尚なことを目指して映画を観てきた訳ではなく、当たり前のようにTVをつけてやっているものや、映画館で上映されているものを観ていたんですよ。今の若い人たちも同じだと思うけど、育った時代というのはやはり違う。人間は環境を選んで生まれてこれないし、その環境のなかでアイデンティファイしていくしかないというのは絶対的な真理ですよね。だから、それを否定する訳にはいかないっていうのはあるんですよ。結局、我々は自分が観てきたもので物を考えるしかない訳だから、それを糧にして物を疑っていくしかないですよね。今の20代の子達は80年代生まれですから、僕らからしたらもの凄く文化が衰退した時期のね(笑)...どうしてもそういう予断をもってしまうんだけれど、それでも、きっと、もの凄く強く何かに反応して、そこから自分の懐を広げている人はいるんだろうなって思っています。そういう人は自分が昔観たものに立ち返っても、ただ単にマニアックにものを知っているだけではなくて、批評の眼というか、表現が生まれて来る時のダイナミックな感覚をもっていると思います。そこに賭けるしかないというか、意識的にお勉強しなさいって言っても、それは無理だという気がします。

沖島:今の映画美学校の人達やCO2(シアニスト・オーガニゼーション・大阪エキシビション)に応募してくる人達の作品を観て感じるのは、僕があの年代の頃って本当に経済みたいなものにも疎くって、映画に関しても自分は監督になるんだからお金のことなんか関係ないっていうような状態でした。まぁボーッとしていたというか...。学生映画を作っていると、どうしても資金の問題が出てくるんだけど、当時の僕らには何の戦略がある訳でもないし、ある意味でお坊ちゃんだったんだよね。今の若い人の作品を観ると低予算の中で映画を作る計算ができていて、その点すごく実践的だな、って思います。予算に見合ったような内容の作品を考えたり作ったりするんだよね。ああいう現実感覚ってボーッとしていた僕らの頃には全然なくて、それと比べると随分時代は変わったな、と思いますね。

高橋:したたかな人はいますよね。自主映画をやっていて思ったのは、自主映画って成熟しないことの自由、なんだろうなと。勿論、成熟していない訳ですから、自由どころか単なる稚拙に陥る危険があるし、実際、自主映画のほとんどはそういうものですけれど、それでも自由はあったと思うんですね。自主映画出身の人達も(商業)映画業界に増えてきていますが、一方でそういった人達の中には常に「器用」な人達がいるんですよ。自主映画時代から器用な人はいた訳ですが、どうも器用さを成熟することと取り違えて大きくなってしまった人達が今の作り手の多くなのではないか。そう考えると暗澹たる気分になります。本当は成熟しないことの自由を体験した人こそが成熟していかなければならないし、本物の技術は成熟に裏付けられていると思うんです。早熟というか、早い段階で器用であった人達は、成熟という言葉を本当の意味で分からないままに世の中を渡っていけてしまうので、その器用さを発揮して観客をコントロールするっていう方向に行く感じがしますね。巧みにネタを振っていって、如何に観客に感情移入させるか...そういう作り方が正しいのだ、っていう考えが蔓延してしまう。

沖島:器用っていうと例えばどういう感じなの?

高橋:最近の若い人の映画を観ていて感じるのは、作り方がいたってクレバーということですね。自分がコントロールしきれる範囲を分かっていて、その範囲内で話を作って芝居の幅も決めているんです。そこからはみ出すことをやろうとするとコントロールしきれないし、観客もおそらくそこには乗らないっていうことを冷静に計算してやっているように見えるんです。そうすると、あるクオリティのものはできるし、きちんと評価もついてくるし、無理をしない形でキャリアを重ねていって、だんだん大きい作品を撮れる立場を作っていくことができる。そういうことは、作り手であれば誰もがある程度は考えなきゃいけない、身につまされることではあるんだけど、芝居の幅が狭いっていうこと自体は観ていてとても気になります。  コントロールする範囲というのは予算の問題もあるでしょうけど、むしろ芝居に関する事柄で、たとえば台詞でいうと、脚本で生身の人間が自然体で発声できる台詞しか書かないってことです。『一万年、後....。』も『狂気の海』も生身の人間が言えっこないことを書いているんですよね。でも、映画の台詞、芝居ってそういうものだったんじゃないかと。生身の人間が決して言わないようなことを俳優が言った瞬間にある種世界は崩壊の危機に瀕する、そういう意味で大変な作業に挑戦するということにならざるをえない。芝居の範囲を狭くする映画っていうのはそういう危機を回避したところである品質を守るし、観客にとっては理解しやすい映画になるっていう。

沖島:僕らだって、全くコントロールをしきれないものを役者に言わせたり、演じさせたりしているかどうかは分からないけど、ある程度コントロールさせないと演出ができないので、撮るほうでなんとか成立させている訳です。それは、他人様と分かり合えることを前提にしている映画とは違うと思います。  僕は『狂気の海』は役者が非常に良いと思って観ていたのね。中原翔子さんは是非僕の映画にも出て欲しいと思ったし、田口トモロヲさんの毒にも薬にもならない存在感っていうのは成功していると思う。僕だったら、もっと喜劇っぽく演じさせてしまうところを、良く抑えて演出していると思いました。抑制がきいているが故に、中原さんが演じる首相夫人に秘めたる色気みたいなものが出てきている。まぁ、浦井崇は相変わらずだったけど(笑)。


(3)につづく
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