■ 沖島勲 X 高橋洋 対談 (4)

1man-3.jpg映画と外側の世界

進行:『狂気の海』では憲法九条が題材として扱われています。高橋さんは『アメリカ刑事』でも9.11に関するチョムスキーの著作を映画の中で撃ち抜いたりしています。一方で『一万年、後....。』でも小泉純一郎や郵政民営化といった時事ネタが出てきますが、こういった映画に出てくる政治的な事柄についてどうお考えでしょうか。

沖島:『狂気の海』は憲法九条の話がなかったら全然面白くないですよ。憲法九条が語られて、日本列島が沈む、それくらいの構えでいかないと大嘘を語る面白さっていうのが出て来ないと思う。それに核爆弾がアメリカに発射されるとか、日本憲法のことを映画でどうしてやっちゃいけないのか。これは重要な話だよね。例えば『一万年、後....。』でも文化庁の助成の選考から漏れた訳だけれど、映画の中で小泉純一郎を名指しで出さなければ結果は違ったかもしれない。あくまで推測だけどね。それでも、僕は絶対にそこを消さない訳。重要ですよ、思ったことをちゃんと言うってことは。それをびびっているんだったらさ、なんで映画なんか作っているんだって話になるよ。『YYK論争』でもNHKとか司馬遼太郎といった固有名詞を出しています。これは映画の中の世界を僕らが生きている現実に引き戻すというところもあるし、とにかく思ったことは言わなきゃいけない。『狂気の海』も安倍晋三をモデルにしたキャラクターが出て来なかったら、面白さが全くなくなると思いますよ。作るほうもドキドキしながら作らざるえない中でやるんだっていうね。
進行:沖島さんが監督のキャリアを始めた1960年代後半辺りには、いわゆる政治的な映画が多くあったと思いますが。

沖島:当時は政治状況に不平不満を言ったり、反抗する映画ばっかりだったからね。ただね、その人達が映画でもって名指しで政府を批判する場面が撮れたかっていうと意外に撮れないじゃん。そこはこの問題の非常に微妙なところで重要です。

進行:憲法九条に関してどう考えるかと聞かれたら、僕の個人的な立場としては改悪反対なんですが、どうもその答え方に政治的な枠組みを超えられないという忸怩たる気持ちもあります。一市民としては平和であったり、社会を良くしていかなければいけないと考えていますし、実際、そう言うことが必要な場面はあると思います。一方で人間は全員地獄に堕ちろと言うと不謹慎かもしませんが、動物や地球にしてみればそのほうが遥かに良いことだと言えるのではないか、と。人間としての政治的な枠組みで物を言う場合と世界の論理は別だと思うのですが、『狂気の海』にしろ、『一万年、後....。』にしろ人間の政治的な枠組みを超えたことをやろうとしているのではないか、と。その辺りはいかがでしょうか。

高橋:つまり、新聞の文化欄で文学者が言わなければいけないような時代を語るとか社会を批判するとか、物を表現する人がそういう役割を負わされる時に陥ってしまう形式ってあるよね。仕方がないから発言しているのが新聞の文化欄だと思うんだけど、そういう言葉の形式が嫌で、そうじゃないけどちゃんと語れるっていうことを僕はやりたいんですよ。そうするとああなる。『狂気の海』は文学が背負わされている社会的な役割を映画ははっきり拒否する、そういった表明なんです。

進行:新聞の文化欄が嫌だっていうのは何故?

高橋:気の毒な感じがするんですよ。あらかじめモノを言う形式が決められちゃってるような。

沖島:新聞の文化欄なんかでは一社会人として発言せざるえない訳で、映画の世界でそれをやっちゃあさ。憲法九条をなくせにせよ、必要だという立場にせよ、本当に色んな疑問ってある訳じゃない。『狂気の海』では普通の国っていう言葉が映画の中でも効いていたと思ったね。普通の国っていうのは戦争をやるってことだ、と。じゃあ普通の国として戦争をやろうよって言われたら、いきなり驚いてしまうような一種の平和ボケがあった上での議論がある訳じゃない。本当に戦争やるとなったときにびっくりするような国じゃあさ、何のための普通の国か分からない訳。そのことを新聞の文化欄では言えない訳でしょ。映画でせめてそのくらいのことは言わないとさ。

進行:嫌だと思いますが、何かの間違いで憲法九条について新聞の文化欄で発言しないといけないとしたらどうしますか?

高橋:映画で言っていることに近いことを言うんじゃないですか。だって憲法九条がもはや宗教になっちゃっているようなものですよね。あなたがたは宗教を持つのか持たないのか、その選択であって、そこであなたたちはどうするんですか、と。僕は宗教にしてしまうことに反対だと。

沖島:僕は今の段階では戦争放棄というのは残したほうが良いと思っているけど、それは宗教というよりは願望だよね。戦争をやめるっていう。願望は願望だし、実際に戦争が起ってしまったら、また何が始まるか分からない訳だから。そこの落差、「普通の国」的な一つのちゃんと人格をもった国家として考えていくよりも、この願望みたいなものを片方に置くのは面白いと思っているけれど、いずれにせよ、高橋さんがあの映画で言っていることは、全く無意味な発言じゃないと思っているの。やはり宗教というか、平和惚けちゃっているところに絶えず打撃を与えてみるっていうのは必要なんじゃないですか。高橋さんが別のインタビューで言っているようにまさに戦争っていうのはモラルとは全く別の動機で起ってしまう。このことはもの凄く重要だよね。

進行:中原翔子さんが演じる首相夫人も言っていることはかなりやばいと思う人も多いでしょうが、彼女なりに理屈は通っていますよね。こういったある種の論理を映画の中に据えたときに、それが勝手に働きだす力学のようなものに高橋さんは惹かれているのではないか、と思うのですが。

高橋:それはありますよ。一種の原理主義のやばさっていうのは自分の中にあるだろうし、中原さんはそれを演じてくれたと思います。ああいう台詞は中原さんじゃないと言えないし。そういうロジックが素晴らしいと喧伝するつもりは全くないし、むしろとても恐ろしいものなんですけど、恐ろしいものって現実にあるんだよね、っていう。それは自分の中にもありますよ、ということは正直に言うってことですよね。

進行:別のインタビューで沖島さんは『ニュー・ジャック&ヴェティ』の作劇について「何かひとつ始まったら、ガタガタと進んでいって行き着くところまで止めようもないドラマのエネルギーが端緒にあった」と言っていますよね。

沖島:僕はもう『ニュー・ジャック&ヴェティ』のようなものをやりたいとは思っていないけれど、原理主義に関して言うと、人間が追い詰められてしまえば、そうなってしまうものじゃないの。圧倒的な力がどこかから働いて、追い詰められた自分が無力でしかないという状況になったら、命がけで何かやらなきゃいけないって考えるだろうし、原理でもでっちあげでもいいから、それを信じ込んでやるしかないってことになり得ますよね。実際にそこまで追い込まれたら大変だよ。

高橋:『ニュー・ジャック&ヴェティ』のところで語られていたことって凄く良く分かりますね。最初から細かいことが見えているんじゃなくて、あるのようなもの映画を動かしていくってことがあるんだよなって。

沖島:地球環境の問題なんか見ていると、そういう感じってあるよね。もう結果が出始めたときは遅いっていうかさ。それまでは原因が潜伏している訳じゃん。もう溜まりに溜まったのがいよいよ表面化したときには、人間の手で押さえるってことができないっていう一種の物理の法則みたいな感じでさ。TV番組でも視聴率が落ち始めたときはそうよ。小手先で何か対策を講じても全く修復なんてできない。もの凄い数の視聴者っていう人達が良く分からない法則でついたり離れたりする感覚っていうのは「まんが日本昔ばなし」が終わったときに実感しました。今までプラスに働いていたものが逆転していくって正体は全く分からない。

高橋:そう、正体は分からないんですよね...。

沖島:正体の分からなさっていうことが『狂気の海』には良く出ていると思います。こういう映画が今の時代に出てくるのは面白いと思うね。これも正体の分からない何かを作り手が持っているかどうかが全てだと思う。

高橋:こういう考え方って基本的に自分の中にあるから変更しようがないのですが、これから商業映画もやっていかなきゃいけないときにも、自分の身体がいわゆる商業映画を拒否しているので...どうしたものかって(苦笑)。そこで今、僕も苦闘中です。

痕跡としての映画

進行:『狂気の海』のラストカットは誰も見ることのできない崩落した石像のショットで終わっていますし、何か正体の分からないもの、人間とは別の視点から映画を作っている気がします。

高橋:元々映画ってそういうものだったんじゃないか。お客さんの気持ちを乗せるって考え出したときから、お客さんと同じ平場に立って作るということを強いられてしまって、それが映画のパワーを削いでいるんじゃないか、と。

沖島:なるべく平均的に誰にでも受け入れられる物を作ることを商品には求められるでしょう。ただもっと馬鹿馬鹿しいと思っているのが、誰もがそうしろって言っていないのに自らそうしてしまうマインド・コントロールみたいなものがあること。例えば、ハリウッド映画であったりする訳だけどまったくスケールが違う訳。グローバルな植民地に流していくハリウッド映画に比べて、『一万年、後....。』は何千人の人達に観てもらったらみたいな小さいところでやっている訳。その大きさの違いを無視して、小さいハリウッド映画を作ろうとするくらい馬鹿馬鹿しいことはないんだよね。興行の面でも、映画の情報を各媒体にのっけて覆っていこうとするよりも、町中で歩いている人の手を実際に引っ張ってきたほうが早いっていう映画だってある訳じゃない。それでも、形としては似たようなことをやってしまう。お金を費やして試写をやったり、メディアに働きかけたり、一応恰好だけは踏襲する。それが一番愚かしいことだよね。だけど我々自身が非常に陥りやすいことでもある。

高橋:今まで映画を観てきたことの力って、物を疑うことなんですよ。普通はこうやるよね、っていう意見に対して如何に抗うか、そこだと思います。

沖島:僕にはもう映画って「普通こうやる」とか「元々こうだ」って考えもないの。もう元々がない。

高橋:「元々」というと元にある何かが基準になってしまうから、物を疑うということはそうじゃない、目の前にある物を疑って一からやり方を見つけていくしかないんだということですね。何かを参照するというのは、かつて成立したものを再現することでしかなくて、劣化コピーになってしまうと思うんです。そうではなくて今あるもの、既存のやり方を全部疑って作っていくということでないとパワーは出ないんだろうな、と思いますね。

沖島:もう僕には疑いすらない(笑)。とにかく、自分が映画って言われるものを使って、まだやりたいことがあるなら、それをやるだけだ...そこまで来ちゃっている感じです。映画を破壊していくことの面白みすらなくなっている。そんなことを優雅に楽しむような余裕もないし。今、準備している次作の『モノローグ』という映画は自分の小学生のことを描いているんだけど、これだけは言わないと済まないって思っています。我々もあの世に消えてなくなっちゃう訳なんだからさ、このぐらいのことはせめて言わせてくれよ、みたいなさ(笑)。それだけの想いだもんね。何も言わないで死ぬ訳にはいかないよっていうさ。映画なんて絵画や俳句に比べて歴史も浅いし、100年ちょっとで消えてしまってもおかしくない程度のもんだと思うしさ、映画がなくなるのもしょうがないと思っている。だけど自分の得意技って映画しかないんだよ。自分が人前に出せる芸っていうの?...だから、これでやるしかないと思う。

高橋:そうだなぁ...「元々がない」ではなくて、「疑うこともない」って凄いですよね。僕は何かを作ろうとしたときに「普通はこうだよね」って力が向こうからやってきて、「いやそうじゃない」って言っている内に何か見えてくるって感じがしますからね。そういう点ではまだまだ僕のほうが楽天的なんですね。

沖島:高橋さんは楽天的というか、まだまだ僕ほど疲れてないとでもいうか。まだこれからの人ですから。僕なんかある程度の見切りをつけていかない駄目だってことじゃないかな。そうはいっても僕が身につけてきたのは映画しかないから、そういう意味では職人的っていうのは貴重だと思うし、好きなんだよね。僕は手工業的、家内工業的なやり方が映画に一番ぴったりきていると思う。大きくなりすぎたらダメなんだ。家内工業的に職人的に技を発揮してやっていくのが一番正しいんじゃないかって思う。小さい規模とはいえ、そこには芸や職人としての誇りっていうのはあるはずなんですよ。

高橋:沖島さんは、確か映画がエンターテイメント、アトラクションとしての役割を終えるんじゃないかって言っていましたよね。

沖島:まぁ、僕が終わったと言っても、映画はずるずると100年も200年も続くかもしれないけど、僕も映画を志してから50年って長い訳だよね。やっぱり映画が見世物としての輝きを持っていた時代も知っているし、自分がそういうものに憧れてきたことから言っても、映画は衰退したっていうさ、そんな気持ちなんだよ。今は映画を作って観せるほうも困っているじゃない?何やっても驚いてもらえない、喜んでもらえない、ますます軽薄なことを過激にやるしかないっていう。だから見世物としての寿命もそろそろ耐用年数が終わりつつあるんじゃないの。今、映画に何が残っているのかというとそれこそ影?映画って幻だよね。そういうものとして、自分と絡んでいけるものを探すしかない。やっぱり、本当に思っていることが奇跡のように目の前に現れてくるときって僕の場合は映画なんだよ。役者やスタッフの力を借りたりしてね。僕の場合は、その喜びって映画でしかやれないんです。それは孤独の快感なんだけどさ。それを知らない人ばっかりになってしまったら、完全に終わりになるんじゃない。今、大変な数の映像が宇宙まで飛び交っている訳だけど、僕らみたいにそういう孤独な喜びを知っている人間が本当に映画というものをまだ生き延びさせている。これがいなくなって映画が単に技術とアトラクションになったらね、屋台骨がなくなるよ。もう色んなメディア(TV、新聞)がさ、そういう傾向を帯び始めているよね。新聞だってさ、学校の先生だってさ、自分の職業を維持するために物を言っている、大きな展望も志もなくてさ。それが露骨に見えてしまうっていうさ。  映画は影だと覚悟して作っていく、そういう意味での宣言に『一万年、後....。』はなっている。人間が観ていないところでも発信することはあるよ、と。

高橋:僕という人間の執着なのかもしれませんけど、今の話を聞いて非常に良く分かったのは、子供の頃感じたヴァイブレーションってあるんですよね。こういう人間がかつていた、こういうヴァイブレーションの感じ方があったということを形として残さないと死にきれないという。

進行:高橋さんがそういう願望を持っていたのは意外ですね。

沖島:高橋さんはそればっかりですよ。

高橋:僕なんか煩悩の固まりですよ。トラウマだなんだって色んなところで言っているのも全部そういうことですよ、結局。だから、自分がやっていることを阿藤さんに言われているんだよね。ああいう訳は分からないけど電波の海からふっとやってきて何か痕跡を残すのかもしれないという...永遠に生きる吸血鬼の思想というのがあるんだよ、きっと。それは無理なことなんだけど、ずっと考えているんだよね。よく幽霊に対するツッコミで、「誰も見ていない荒野にも幽霊は出るの?」っていうのがあるんだけど、僕は「出る」って言いたいんですね。今の話を聞いてとてもよく判った。それが『一万年、後....。』だったんですね。少年たちはたまたまいてくれたのであって。

進行:今の映画をとりまく状況がどうかと言うどころか...何か得体の知れない痕跡を残すという...。

高橋:そうなんだよね、吸血鬼の考え方なんだ...これは。


進行・構成:山川宗則)
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