■ 『アカイヒト』を語る3(遠山智子)

02.jpg井川さんから質問をいただきました。『亀の歯』『巣』『アカイヒト』の三作品には、どれも兄と妹が登場し、さらに妹は死んでしまうか、死病にとり憑かれている、という共通する設定がある。なぜその設定を繰り返すのか、そのこだわりは何なのか、宮沢賢治の『永訣の朝』なども関連しているのか。といった質問でした。  この兄と妹の設定の繰り返しは、私自身も、作るうちに気付いてきたことです。この三作品の他にも、『あいな』("兄"の意 )や、いま制作過程にある自主映画にも、相も変わらず兄と妹が登場します。これらは全て、私の兄、私の母と伯父の存在、そして兄と妹という関係性への個人的な興味に因ることと思っています。

 私には兄が一人おり、どちらかというと少し執着しています。兄と妹とは、一つの身体がバラバラに離れているだけであって、実は両性具有の一つの生き物だと妄想することもあります。例えば起きがけに、さっきまでみていた夢の最後を必死で反芻するように、根拠もないところで信じきっているような感覚です。そもそもは、兄と私の顔が似ている、ということが発端だと思われます。また、幼い頃、姉よりも歳の近い兄について遊んでいたことも原因の一つです。兄は自分にとって、先導者であり、庇護者であり、同じ経験をした幼なじみであり、見捨てるように先に社会に出てしまった手の届かない人であり、憧れであるということです。そしていつまでも私は妹でありたいと願っているのです。  また、私の母が伯父と二人兄妹であること、子供の頃二人で親戚の家に預けられた時期があること、母が病弱であったこと、伯父が亡くなったこと、それらが、私に、兄という存在への妹の特殊な愛情や、兄の、妹や妹を取り囲む世界に対する愛というものを感じさせました。  こういった個人的な環境がやはり一番反映されているのだと、いまはそう思っています。 宮沢賢治の『永訣の朝』『雪渡り』『ひかりの素足』。その他、兄妹・兄弟がでてくる作品は、二人が、何か一つの経験や秘密を共有し、それがどちらかの死に関することであったりすることが、まるで一人の人間がそれを通過したように感じられ、兄妹・兄弟の愛の一つの形として私の中に積み重ねられています。  死に出会ったとき、兄は妹に何をするか。妹は兄に何をするか。死に出会ったとき、お互いの存在は影のように自らの中に染み付き、二人は決定的に別々の人間になっていくのではないか。私なりの、自立についての観念だと思っています。
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